think about
■
一月から、何か自分の衝動的な感覚が、
なんとなくずっとストップしていた。
震災があって、そのストップしていた感覚が、
強引にぐわんぐわんと揺らされた。
前に、後ろに、知らない角度に、ぐらぐらと。
その余震のまま、四月は、思考の着地ができなかった。
■
ずっと、被災の想像に、心がとらわれきっていた。
ここではない被災地の現実を、
被災地ではない東京や長野から知る。
だけれども、
被災地ではないとこから知る情報は加工された情報でしかなくて、
現場を知ることには到底なっていないと、
自分でもよくわからないけれど、テレビの報道やネットのニュースを、
驚くほど懐疑的に受け止めるようになった。
だけれども、少しでも情報が知りたくて、
不安や心からの心配半分、エゴが半分、毎日毎日インプットを続けて、
なんだかんだ自分の生活のことしか手がまわっていなくて、
現地に行く訳でもない、何をするわけでもない、
だからといって自分のことを何かできているかというとそんなこともない、
そんな、何も生み出してない自分に、終わってるなーと思う毎日だった。
■
こんな事態に、心から不謹慎に、当事者になりたい気持ちも絶対どこかにあって、
それはどうしても否定できなくて、
「私も心配している、心を痛めている」と思えることで救われる、
そんな感情があるんだということにも、気付いた。
それを認識したときにも、終わってるなーと思った。
■
だけど私がどうあろうが世間には関係なく、
だったら動けばいいのだと、思い切って動くぞと決めた矢先に、
ちょっと大きめの余震があっただけでひよった自分がいた。
こんなんで現地入れないわと。ばかかと。
これから暑くなると、私は稲刈りですら熱中症になってしまうから、
現地でお手伝いなんてできるだろうかと、
ますます役立たず感に打ちひしがれる。
■
そんなふうに、
無力感に対向するポジティブを無いなりに奮い立たせようとしているところに、
さらに上から不安や心配事と雑多で膨大な情報が重なってきて、
何度も何度も上がったり下がったりして、
その足踏み感にもまたため息をつくような、そんな毎日だった。
■
震災により被災された皆様には、心からお見舞いを申し上げます。
どれだけ苦しいか、辛いか、悲しいか、
想像しようとすると、思考が止まってしまいます。
想像が、悲惨になりすぎて、心が拒否してしまう。
報道で時折、厳しい状況の中にも関わらず、
被災された方が前向きにいる姿勢を拝見して、
私の方が励まされています。
■
立ち止まったままの私、
がんばれとか、元気を出そうとか、
動ける早さは本当に人それぞれだと、とても実感した。
私はまだこれからも、手を合わせる時間がほしい。
■
心境メモ。以上。